アルベルト・アインシュタイン[† 1](独: Albert Einstein[† 2][† 3][1][2]、1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ生まれの理論物理学者である。, 特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論、ブラウン運動の起源を説明する揺動散逸定理、光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式、ボーズ=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績で知られる。, それまでの物理学の認識を根本から変え、「20世紀最高の物理学者」とも評される。光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年のノーベル物理学賞を受賞。, 1905年に特殊相対性理論を発表。「20世紀における物理学史上の2大革命」としては量子力学および相対性理論が挙げられるが、以前から論理的に展開されていた相対性原理(アンリ・ポアンカレ、ジョゼフ・ラーモア、ヘンドリック・ローレンツなどによるもの)を明確化および採用し、ニュートン力学とマクスウェルの方程式に基づく当時の古典論的物理学の体系に対し、相対性原理に基づく時空概念の修正を前者へ施すことにより、(重力場を除いて)両者は理論的に統合され、古典論的物理学体系の完成に成功した。特殊相対性理論では、「質量、長さ、同時性といった概念は、観測者のいる慣性系によって異なる相対的なもの」であり、「唯一不変なものは光速度 c のみである」とした。, 1905年発表の特殊相対性理論は、重力場のない状態での慣性系のみを取り扱った(限定的な)理論であるが、1915年-1916年には、加速度運動と重力を取り込んだ(より適用範囲を広げた)一般相対性理論を発表した。一般相対性理論では、重力場による時空の歪みをリーマン幾何学を用いて記述している。さらに後半生の30年近くを重力と電磁気力を統合する統一場理論を構築しようと心血を注いだが、死により未完に終わった。, 一般相対性理論を素直にそのまま認めると、「宇宙は膨張または収縮をしている」ということが素朴に演繹されうる。だがアインシュタインは、宇宙が膨張や収縮しているとは考えたくなかったため、重力による影響を相殺するような宇宙項Λ(ラムダ)を≪場の方程式≫に組み入れることで、理論上静的な宇宙でも存在可能であるとする理論を作った。しかしその後、エドウィン・ハッブルらの天文台での実際の観測によって、実際は宇宙は膨張している、ということが観測的に確認されたため、アインシュタインは自身がかつて提案した「宇宙項」を撤回せざるを得なくなった(のちに彼は、宇宙項の導入は「生涯最大の失敗」と述べることになった)。なおアインシュタインが死去してからかなり月日が流れ、21世紀になってからの宇宙望遠鏡による超新星の赤方偏移の観測結果(つまり、この10年ほどの観測データ)の分析によって、「宇宙は膨張している」と言っても、単に一定の速度で膨張しているのではなく、その膨張する速度が次第に大きくなってきている(加速している)ということが明らかになってきており、この「加速」を説明するには、「宇宙項をむしろ導入するほうが妥当だ」「アインシュタインは実は宇宙項を撤回する必要はなかったのではないか」とする指摘や学説が存在する(詳細はダークエネルギーを参照)。, 光量子仮説によって光電効果について理論的な説明づけを行うなど、初期量子論の確立に多大な貢献をした。しかし、「量子は確率論的に振舞う」とする量子力学自体については、アインシュタインは、「神はサイコロを振らない」[† 4]と懐疑的な立場をとった。局所実在論を支持していたアインシュタインは量子力学の矛盾点の一つとしてアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスを提示したが、のちにベルの不等式の破れが実証されると局所実在論は破綻し、EPR相関として知られるようになった。, そのほか、ブラウン運動を説明する理論の構築、固体における比熱の理論である「アインシュタインモデル」の提唱、ボース=アインシュタイン凝縮の予言など、物理学の全領域にわたり多大な業績を残した。, アインシュタインは1879年3月14日、ヘルマン・アインシュタイン(ドイツ語版)を父、パウリーネ・コッホ(英語版)を母とし、その長男としてドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州ウルム市にて生まれた[3][4](父ヘルマンは学生時代、大の数学好きで同分野の探究を続けることを望んでいたが、家庭の経済的事情からそれを断念し、商人となることを決意。シュトゥットガルトでその修業を開始、1876年に18歳でパウリーネと結婚しウルムに引っ越し、ヘルマンの従兄とともに羽毛寝具の店を共同経営していた)。父ヘルマンはその弟ヤコブから誘われ、アルベルト誕生翌年の1880年夏、一家はミュンヘンに引っ越し、兄弟は、直流電流に基づいた電気機器を製造する会社「Elektrotechnische Fabrik J. Einstein & Cie」を設立した。ヘルマンは営業を担当しヤコブは技術を担当した。1881年には一家にマリア(アルベルトの妹。通称「マーヤ」)が誕生し、一家は1894年まで同地ミュンヘンで暮らすことになる。, アインシュタインは、5歳ごろまであまり言葉を発して他人と会話することがなかった[4][† 5]。しかし、5歳のときに父親からもらった方位磁針が、自然界の仕組みに対する興味をもたらすきっかけとなった[4]。また、同じ頃、ヴァイオリンを習い始めている[4]。そしてすぐにモーツァルトの曲が好きになり、ヴァイオリンは生涯の友となった。, アインシュタイン一家はその家系からしてアシュケナージ系ユダヤ人ではあったものの、敬虔なユダヤ教徒というわけではなかったため、アインシュタインは5歳から3年間、ミュンヘンにあるカトリック系の公立学校へ通った。卒業後はミュンヘンのルイトポルト・ギムナジウム(英語版)(現在では「アルバート・アインシュタイン・ギムナジウム」と呼ばれている学校)に入学。以後7年間、(ドイツを離れイタリアに行くまで)教育を受ける。しかし、同校の軍国主義的で重苦しい校風にはなじめなかった[5]。, 幼少のころは、言葉を理解したり話したりするという面では問題がなかったが、言葉を出すのには時間を要した。一方で数学に関しては傑出した才能を示し、9歳のときにピタゴラスの定理の存在を知り、その定理の美しい証明を寝る間も惜しんで考え、そして自力で定理を証明した。12歳のときに叔父からユークリッド幾何学の本をもらい独習。微分学と積分学も、この当時に独学で習得したといわれている。同じころ、医学生だったマックス・タルメイから天文学の存在を知らされ、同時に物理学に関心を示すようになったという。ただ、確率は生まれつき不得意で、このことがのちに統計力学・量子力学を否定する素養となる。, 1894年、父と叔父の会社が行きづまり(ミュンヘン市の電流供給が直流方式からより便利な交流方式へと変更されたが、ヘルマン兄弟はその事態に対応して工場設備を変更するのに十分な資本を持っておらず、ミュンヘンの工場を手放さざるを得なかった)、その結果、新たな商業的な機会を求めて一家はイタリアのミラノに引っ越すことになった。父ヘルマンはアインシュタインがギムナジウムをしっかり卒業する必要があると判断し、アインシュタインだけ同地に残されることになった。父ヘルマンはアルベルトが電気工学の道へと進むといいと考えていたのだった。だがアインシュタインは規則ずくめで軍国主義的な校風と対立・反発し、1894年12月末、医師に書かせた診断書を口実にして退校を申し出て、家族を追って旅をし、当時イタリアのパヴィアにいた家族のもとへとやってきた[6](このイタリアでの滞在中、アインシュタインは「磁界中でのエーテルの状態の調査について」という題名の短い試論を書いたという)。, 1895年、スイスの名門、チューリッヒ連邦工科大学を受験するも総合点が合格基準に足らず失敗。しかし同校の校長は、アインシュタインの数学と物理の点数が最高ランクだったため、アーラウのギムナジウム(ドイツ語版)に通うこと(大学入学に必要な中等教育の諸知識を習得すること)を条件に、翌年度の入学資格を与えた。アインシュタインは1895年と96年に同校に通学した。アーラウの学校の校風は、ある程度自由が保障されており、さらにこの学校は視覚教育に力を入れていた[† 6]。, ある晴れた日の昼休み、アインシュタインは学校の裏にある丘に寝転んで空を眺めていた。いつの間にか眠り込んでしまい、不可思議な夢を見た。それは、自分が光の速さで光を追いかける夢であったという。彼は目が覚めると、すぐに思考実験を試みた。これがのちの相対性理論を生み出すきっかけになったといわれている。, このころアインシュタインは教師のJost Wintelerの家に身を寄せていたが、その娘のマリーに恋するようになった。1896年1月、父の許可のもと、ドイツ帝国の兵役義務から逃れるためにアインシュタインはドイツ市民権を放棄した(その後にスイス国籍を取得するまで無国籍となった)。1896年9月のen:Matura試験(欧米で広く見られる中等教育修了試験)をアインシュタインはおおむね好成績で、特に数学と物理は 6段階評価の最高ランク「6」で、無事通過した。10月、チューリッヒ連邦工科大学への入学を許可された。同大学の、数学・物理学の教員資格を取得する4年課程の学生となったのである。同学は自由な校風で、数人の学友を得た。恋の相手だった Wintelerの娘マリーは、アインシュタインよりも1歳年上で、すでに教員資格を得て、教師として着任するためにスイスのオルスバーグへと引っ越してしまった。しかし、アインシュタインは同大学でミレーバ・マリッチという女学生と出会う。チューリッヒ連邦工科大学は当時としては女性に門戸を開いていた数少ない大学のひとつであったが、ミレーバはアインシュタインが属した課程の6名の中で唯一の女性であった。最初は友達だった二人は、数年の年月とともにロマンス(恋愛感情)をともなう関係となり、アインシュタインがますます熱中するようになっていた物理の文献を一緒に読むようにもなった。, アインシュタインは大学の講義にはあまり出席せず、自分の興味ある分野だけに熱中し、物理の実験は最低の「1」、電気技術では優秀な「6」の成績をとった。大学時代は、化学の実験中に爆発事故を起こし、学校をパニックに陥れてしまったこともあった。彼は教師には反抗的で、授業をよく休んだ[7]。, 1900年つまり卒業の年、アインシュタインは数学・物理の教員資格試験に無事合格した(だが、恋人のミレーバのほうは、数学部門(関数理論)の点数が足らず試験に落ちてしまった)。アインシュタインは7月にチューリッヒ連邦工科大学を卒業したが、大学の物理学部長ハインリヒ・ウェーバー(英語版)と不仲であったために、大学の助手になれなかった。保険外交員、臨時の代理教員や家庭教師のアルバイトで収入を得つつ、論文の執筆に取り組んだ。, 1901年、スイス国籍を取得[8]。スイスもまた兵役義務を課していたが、アインシュタインは扁平足及び静脈瘤の診断からこれを免除される[8]。(一般の人々には、はるか後の1987年になって若きアインシュタインが交わした手紙が研究されて、はじめて明らかにされたことだが)このころ恋人ミレーバはアインシュタインの子を身ごもり、彼女の両親がいるNovi Sadへ行き滞在し、1902年初頭に娘を産んだ。二人が交わした手紙では、その子は「Lieserl」と(仮の名前で)呼ばれていたが、出産後にミレーバは子供をともなわずスイスへと戻ってきた[† 7]。, 1902年、友人のマルセル・グロスマンの父親の口利きで、ベルンのスイス特許庁に3級技術専門職(審査官)として就職した。年俸は3,500スイス・フランであった。ここで好きな物理学の問題に取り組む自由がたっぷりでき、特許申請書類の中のさまざまな発明理論や数式を知る機会を得る。このころ、モーリス・ソロヴィーヌ(英語版)、コンラット・ハビヒト[† 8]らと「アカデミー・オリンピア(ドイツ語版)」を設立した。同じころ、父ヘルマンが死去。ミラノで埋葬を済ませると、ふたたびチューリッヒに戻り、間もなくしてベルンに移った。, 1903年1月6日、アインシュタインとミレーバは正式に結婚し、アーレ川の近くにあるアパートで暮らす。翌1904年には長男ハンスを授かる。このアパート暮らしでは、アインシュタインは壁が完全な平面ではなく、歪曲している・壁と天井を結ぶ線が直線ではなく、少し曲がっているのではないか、ということが気になっていた。この考えがのちに一般相対性理論を生み出す元となった。, 1905年、26歳のときに3つの重要な論文を発表する。この1905年は「奇跡の年」とも呼ばれている。「奇跡の年」およびそれに続く数年で、アインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関連する五つの重要な論文を立て続けに発表した。, 1905年に博士号を取得すべく「特殊相対性理論」に関連する論文を書き上げ、大学に提出した。しかし内容が大学側に受け入れられなかったため、急遽代わりに「分子の大きさの新しい決定法」という論文を提出し、受理された。この論文は「ブラウン運動の理論」に発展した。アインシュタインがバスに乗車中にベルンの時計台(ツィットグロッゲ)の針が不動に見えることから着想した「特殊相対性理論」は、当時まったく無名の特許局員が提唱したもので当初は周囲の理解を得られなかったが、マックス・プランクの支持を得たことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった[9]。, 1907年、有名な式E=mc²を発表。この年には、「箱の中の観測者は、自らにかかる力が慣性力なのか重力なのか区別ができない」という、のちの一般相対論の基礎となるアイディア(等価原理)を考案。アインシュタインはこれを「生涯最良の名案」と述べた。, アインシュタインが「奇跡の年」を過ごしたベルンのクラム通り49番地は、現在アインシュタイン・ハウスという名の記念館となっており、アインシュタイン一家が使っていた家具が当時のスタイルのまま再現されている。また、ベルン市内にあるベルン歴史博物館には、アインシュタインの業績や生涯を紹介するアインシュタイン・ミュージアムが入っている。, 1909年、特許局に辞表を提出。チューリッヒ大学の助教授となる。この年には彼の生涯で初となる名誉博士号がジュネーヴ大学より授与された。, 1910年、プラハ大学の教授となる。次男エドゥアルト誕生。1911年、ソルベー会議に招待された。同年プランクにより、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム物学研究所の所長に推薦された。, 1912年、母校・チューリッヒ連邦工科大学の教授に就任(その契約は妻ミレーバが行ったとされる)。アインシュタインはわずか1年で再びチューリッヒに戻ることになるのだが、これによりプラハ大学では彼と大学との間に問題が生じたのではないかとの噂が生じてしまう。彼はプラハ大学学長宛てに礼状を書き、これを否定したという。, 1913年、プロイセン科学アカデミーの会員となる。アインシュタインはベルリンに移住した。, ベルリンに移住して数か月後、アインシュタインが再従姉のエルザに対して恋愛感情を抱いている、ということが妻のミレーバに知られ、その発覚から数か月後に妻ミレーバは長男・次男とともにチューリッヒへと引っ越す事態となり、別居状態となった。親友のフリッツ・ハーバーの仲裁も空しく、別居生活が5年ほど続き、1919年2月に正式に離婚の手続きが完了(そこに至るまでに、仲たがいし離婚に至る夫婦にありがちな、誰もがうんざりとさせられるような男女のやりとり、つまり、互いの問題点をあげつらう非難合戦や、慰謝料や養育費の請求やそれの拒否、調停の場での疑心暗鬼の駆け引きなどがあったらしいが)。アインシュタインは当時、ミレーバに対してそれなりの額を払うような金銭的な余裕はなかったため、「ノーベル賞を取ってその賞金をミレーバに譲る」と未来に関する、相手から見て魅力的な条件を提示することで、ともかくも離婚を成立させた(当時、アインシュタインの業績から考えるに、ノーベル賞を受賞することはほぼ確定的とみなされていたため、それを相手へのオファーとして提示することができ、相手もそれを受け入れた)。離婚が成立した数ヵ月後の1919年の6月、アルベルトはエルザと再婚した。そして離婚成立の2年後、招待され日本へ渡航中にノーベル賞受賞の決定が通知された。つまり同賞受賞は、人々が理解・想像していたような学問上の名誉の観点だけでなく、ノーベル賞の賞金を受け取りそれを元妻に渡すことで、元妻との離婚の一連の騒動が完全に片づけられ、落ち着かない日々がようやく終わる、という観点からもアインシュタインにとっては喜ばしいものであったのである。, 1914年、第一次世界大戦が勃発する。この頃、知識人に向けて『ヨーロッパ人への宣言』で平和行動について書いた[10]。, 1915年、ロマン・ロランと出会う。意気投合した二人は、命がけで平和運動をしている人々を手助けする方法について話し合ったという。, 1916年、一般相対性理論を発表。この理論には星の重力により光が曲げられるという予言も含まれていた(これはのちに実証される)。, 1917年、肝臓病や黄疸といったいくつかの病がアインシュタインを襲う。病院はけがをした兵士で一杯になっており、一般人は入院できず、自宅で療養することになる。この数年間、いとこのマージェリッチェ[† 9]が看病にあたる。, 一般相対性理論の立証のため、クリミア半島でアメリカ人ウィリアム・キャンベルに依頼し、皆既日食の観測を試みるも、曇天のため失敗する。また、第一次世界大戦開戦でドイツのスパイと誤認され捕虜となる。, 1919年、皆既日食において、太陽の重力場で光が曲げられること(いわゆる重力レンズ効果)がケンブリッジ天文台のアーサー・エディントンの観測により確認されたが理論の立証にはまだ不充分であった。しかし、このことにより一般相対性理論は物理学理論としての一定の地位を得る。このことは世界のマスコミにも取り上げられ、これによってアインシュタインの名は世界的に有名となった。一方、彼がユダヤ人であるとの理由から、ドイツ国内における彼と相対性理論に対する風当たりは強かった。なお、アインシュタインの親友のフリッツ・ハーバーもユダヤ人であったが、ハーバーのほうはアインシュタインとは異なった道を進み、改宗してドイツ軍に協力し毒ガス兵器の開発に力を貸した。, キャンベルは、アメリカ・ワシントン州で再度日食を観測、曇天の隙間があり撮影には成功したが立証にはいたらなかった。しかし敵国人アインシュタインの名がアメリカで初報道された。, この間、理論の証明は日食観測によるよりも数式上の確度の立証に移り、水星軌道の変則性から、ニュートンの理論の誤りを数学者のダフィット・ヒルベルトとほぼ同時に発見したが、ヒルベルトはその功績をアインシュタインに譲った。, ケンブリッジ天文台のエディントンは戦勝国者だったため、戦後も自由に海外渡航ができ、アフリカのプリンシペのジャングルで日食を観測、理論の立証を発表したが、学会での認証は得られなかった。1922年に皆既日食が豪州で観測されるとあって、キャンベルをはじめ七つの観測隊が派遣されたが、キャンベル隊のみが撮影に成功し、重力レンズ効果の存在を観測によって実証(立証)、これによって一般相対性理論は妥当性のある理論だと学会でも認められるようになった。, 1921年、カイム・ワイズマンの提案により、イギリス委任統治領パレスチナのエルサレムに創立予定のヘブライ大学建設資金を調達するためにアメリカを訪問し、その帰りにイギリスも訪問した(ここではニュートンの墓を訪ねた)。, 1922年3月にフランスを訪れたほか、10月には日本への訪問を目的に夫婦で客船「北野丸」に乗船。11月17日に訪日したアインシュタインは、その後43日間滞在し、大正天皇に謁見している[11](#アインシュタインと日本参照)。また、日本へ向かう最中、11月9日にアインシュタインは前年度に保留されていた1921年度のノーベル物理学賞受賞の知らせを受けている。受賞理由は「光電効果の発見」によるものであった。当時、アインシュタインが構築した相対性理論について「人類に大きな利益をもたらすような研究と言えるのかと言えば疑問」との声、さらには「ユダヤ的」であるとするフィリップ・レーナルトあるいは、ヨハネス・シュタルクなどノーベル物理学賞受賞者らの批判があった。ノーベル委員会は、これらの批判を避けるために、光電効果を受賞理由に挙げたと言われている。なお、受賞に際して賞金も授与されたが、これはアインシュタインが近々自身のノーベル賞授与を予測しており、賞金を渡す前提条件に離婚していたため、かつての妻ミレーバに渡したとされる。, 1923年、日本を出国した後、エルサレム、スペインを訪問しドイツへと戻る。7月11日にスウェーデンのヨーテボリでノーベル賞受賞の講演を行っている。, 1925年、インドの物理学者サティエンドラ・ボースからの手紙をきっかけとして、ボース=アインシュタイン凝縮の存在を予言する論文を発表。また、この時期に行っていた誘導放出の研究が、のちのレーザーの開発につながることになった。, 1930年、ベルリン郊外、カプート(ドイツ語版)という町に別荘を建てる。 ドイツ,ウルム [没]1955.4.18. このページでは、天才科学者アルベルト・アインシュタインの名言や格言を英語で紹介しています。アインシュタインは、相対性理論などを提唱したことでも有名ですね。是非、お気に入りの名言・格言を探してみてくださいね。また、以下のページも合わせてご覧く この世界でもっとも有名な偉人は?この世で一番頭がいい人物は?「アルベルト・アインシュタイン」このような質問の答えとしては、この偉人の名前が真っ先に挙がるのではないでしょうか。アインシュタインは、ドイツの偉大な物理学者で「相対性理論」をはじめ 同年11月、レオ・シラードと共同でガス吸収式の家庭用冷蔵庫の特許を申請する[12]。, 1932年、アメリカへ3度目の訪問をすべくドイツを発つ。しかし、翌年にはドイツでヒトラー率いるナチスが政権を獲得。以後ユダヤ人への迫害が日増しに激しくなっていったため、アインシュタインがドイツに戻ることはなかった。, 1933年、ベルギー王妃の厚意により、ベルギーの港町デ・ハーン(フランス語版、英語版)に一時身を置く。しかしこの町はドイツとの国境に近かったため、ドイツの手が及ぶのを恐れたアインシュタインはイギリス、スイスへの旅行の後、再度イギリスへと渡る。その後アメリカへと渡り、プリンストン高等学術研究所の教授に就任。また、プロイセン科学アカデミーを辞任。なお、この年にはアインシュタインの別荘をドイツ警察が強制的に家宅捜索するなどという出来事もあった。その後ドイツはアインシュタインを国家反逆者とした。, 1935年、ボリス・ポドリスキー、ネイサン・ローゼンとともにアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスを発表する(量子力学と相対性理論の矛盾)。また、アメリカでの永住権を申請、取得する。アメリカ国籍も申請。, 1936年、ローゼンとともに位相幾何学上の仮説としての時空構造「アインシュタイン=ローゼン橋」(のちにジョン・アーチボルト・ホイーラーによってワームホール(1957年)と命名された)の概念を発表する。この年に妻のエルザが死去。, 1939年、当時のアメリカ合衆国大統領であったフランクリン・ルーズベルト宛ての、原子力とその軍事利用の可能性に触れた手紙に署名。その手紙は「確信は持てませんが、非常に強大な新型の爆弾が作られることが、十分に考えられます。この爆弾一つだけでも、船で運んで爆発させれば、港全体ばかりかその周辺部も壊すことができるほどの威力を持っています」という内容だった。, 1940年、アメリカ国籍を取得。1943年、アメリカ海軍省兵器局の顧問に就任。魚雷の起爆装置の改善に尽力した[13]。, 1945年、広島市への原子爆弾投下報道に衝撃を受ける。9月2日に第二次世界大戦終結。連合国の一員であるアメリカは戦勝国となったが、アインシュタインは「我々は戦いには勝利したが、平和まで勝ち取ったわけではない」と演説する。, 1946年、原子科学者緊急委員会議長の役目を引き受ける。また、国連総会に世界政府樹立を提唱する手紙を送る。, 1948年、イスラエル建国。アインシュタインはハンナ・アーレントらユダヤ系知識人と連名で、訪米中のメナヘム・ベギンとその政党ヘルート(ヘブライ語版、英語版)をファシストと呼び、イスラエルのデイル・ヤシンの虐殺事件などのテロ行為を非難する書簡をニューヨーク・タイムズ紙上に発表する。なおこのころ、アインシュタインの腹部大動脈に大きな動脈瘤が存在することが手術の結果判明する。, 1952年、イスラエル初代大統領ハイム・ヴァイツマンが死去したため、イスラエル政府はアインシュタインに対して第2代大統領への就任を要請したが、彼はこれを辞退した。しかし、自分がユダヤ人であることを決して忘れてはおらず、著作権をヘブライ大学に贈った。, 1954年、「人間は肉食動物ではない」と主張してベジタリアンの生活を実践するようになった[14]。「人間の健康を高め、地球生命の存続を確かなものとする点で、菜食に勝るものはない」とも述べている(発言年不詳)[15]。, 1955年4月11日、哲学者バートランド・ラッセルとともに核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴える内容のラッセル=アインシュタイン宣言に署名する。4月13日、建国7周年を迎えるイスラエルと同国国民へ寄せるラジオ放送に関する打ち合わせ後、心臓付近の痛みに倒れる(腹部動脈瘤の肥大)。, 4月15日にプリンストン病院に入院し、周囲から手術を勧められるもこれを拒否。入院中の間、駆けつけた長男ハンスと面会したほか、病院でも研究を続けるべく秘書に電話をかけ、必要な用具を持って来るよう伝えてもいる。そして4月18日の午前1時すぎ、入院先のプリンストン病院で死去(満76歳没)。彼は死の間際にドイツ語で最後の言葉を遺したが、その場にいた看護師がドイツ語を理解できなかったため、彼が最後に何を言っていたのか、その内容については不明。, アインシュタインの死後、同年7月9日には彼が生前に署名したラッセル=アインシュタイン宣言が発表されたほか、12月17日にはプリンストンで彼を偲ぶコンサートが開かれ、モーツァルトのピアノ協奏曲第26番、バッハのカンカータ第106番などの曲目が演奏された。, LIFE誌が1999年に選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれている。, 科学的業績によって得た世界的名声を背景に、アインシュタインはさまざまな政治的発言を行った。第一次世界大戦中は平和主義を掲げ、戦争を公然と批判した。「2%の人間が兵役拒否すれば、政府は戦争を継続できない。なぜか、政府は兵役対象者の2%の人数を収容する刑務所を保有していないんだ」と発言し、反戦運動に影響を与えた。しかし、第二次世界大戦の際は、一転して戦争を正当化し、「最早、兵役拒否は許されない」と発言[† 10]し、同時代人の文学者ロマン・ロランからのちに痛烈に批判された。また、ユダヤ人である彼は、ユダヤ人国家建設運動であるシオニズムを支援した。このためナチス・ドイツから迫害を受け、アメリカに亡命した。, 一部には「アインシュタインが原子爆弾の理論を発見した」あるいは「アインシュタインが原子爆弾の開発者」という誤解も広く存在するが、質量とエネルギーの関係式:E=mc²は、あらゆるエネルギーについて成り立つ式であり、特に原子力に関係した公式ではない[† 11]。また、アインシュタインはマンハッタン計画に関しては一切関与していない。しかしながら、レオ・シラードの勧めにより当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト宛への手紙(写真)に署名したことは事実であり、その手紙の内容は以下のようなものであった。, この手紙はシラードが接触を図っていたアレクサンダー・ザックス(英語版)を介して、1939年10月にフランクリン・ルーズベルトに渡された。その結果、ルーズベルトによりウラン諮問委員会が作られ、アインシュタインの提言が検討されることになり、黒鉛・天然ウラン原子炉の研究についての資金援助が決定した。ただし、「原子爆弾については、はっきりしないことが多すぎた」ため、原爆開発は見送られた。, しかし、2年後の1941年秋にはアメリカで原子爆弾の開発・製造が開始した(マンハッタン計画)。これは41年夏以降、イギリスの科学者たちによる「原爆製造は可能である」とする検討結果がアメリカに伝わるようになったためとされる。 このとき、アインシュタイン自身はマンハッタン計画への協力を求められることはなかった。 国防研究委員会の議長であったヴァネヴァー・ブッシュはその理由について、アインシュタインの過去の平和主義やシオニズムの政治的傾向からみて彼は機密を守れない可能性があった、とした。, アインシュタインの死後、バートランド・ラッセルはラッセル・アインシュタイン宣言を発表しパグウォッシュ会議を創設。また世界連邦の樹立を提唱するなど、多くの平和的言動を残した。, アインシュタインは「自然法則こそが神」であり「≪人格のある神≫はいない」とする考えを持っていた[22]ともいう。 アインシュタインは20世紀史上、最も深い考えを持っていた理論学者。一般相対性理論、特殊相対性理論を唱え、1921年にノーベル賞を受賞。その科学的な成果のみならずユニークな哲学者としても知られ、大らかな人間性を持っていた。そんな彼の名言をご紹介。 「アインシュタインの神秘主義は、哲学者のピタゴラスとスピノザの折衷である」と分析されてきており、1954年の著書 Ideas and opinions 『概念と見解』には、彼のそうした見解が述べられている[23]。それは次のようなものである。, 擬人的な神を据え置くというレベルの宗教を超えた場合には第三の宗教体験が存在し、それをアインシュタインは「宇宙的宗教感覚」と名付けた[23]。この感覚の中では≪擬人的な神≫の概念はまったくないし、体験したことのない者にこの感覚を説明するのは難しい、ということである[23]。また「宗教のない科学はかたわ、科学のない宗教は盲目」と例え、「理性における成功を強く体験した者は誰しも万物にあらわれている合理性に畏敬の念を持っている」とし、「科学、宗教、芸術など様々な活動を動機づけているのは、崇高さの神秘に対する驚きだ」としていた[23]。, ストラドヴァリウスと双璧を為すヴァイオリンの名器、グァルネリ・デルジェスは、アインシュタインが所有していたことで知られている。アインシュタインは6歳でヴァイオリンを始め[24]、1895年に編入したスイスの学校では、仲が悪い級友が学生食堂でヴァイオリンを弾くアインシュタインの演奏に聴き入った、という逸話が残されている[25]。そのアインシュタインが使った最も高価な楽器と言われるのがグァルネリである。このヴァイオリンは、1931年冬にアインシュタインに貸し出された[26]。1727年に作製されたヨーゼフ・グァルネリ・デル・ジェスがこのヴァイオリンであるとされており、アインシュタイン自身が愛した女性に贈ったという逸話がある。その後、パリ音楽院を首席で卒業した日本生まれの演奏者などがこのグァルネリを演奏することもあり、日本で演奏を聴く機会も多い(外部リンク・アインシュタインのグァルネリを演奏した演奏家のページ参照)。, アインシュタインの遺体は焼却され灰は近くのデラウェア川に流された。しかしアインシュタインの解剖を行った解剖学者トマス・ハーヴェイ(英語版)は遺族の承諾を得ずに、脳だけを自宅に持ち帰り、40年間も手元に置いていた。スライスした切片を求めに応じて知人に配布し、その後世界各地の博物館・科学館でアインシュタインの脳の切片の展示が行われるようになった。晩年、彼は脳の残りをアインシュタインの孫娘に返却している[27]。, アインシュタイン研究者で近畿大学の杉元賢治は彼の脳の一部を入手しており、その過程はBBCのドキュメンタリー番組『アインシュタインの脳』で見ることができる。, 2018年にはNHKが散逸した脳を所在を調査したドキュメンタリーを制作している[28]。, 1912年(明治45年/大正元年)、東北帝国大学初代総長の澤柳政太郎が、ドイツ帝国・ミュンヘンに留学中の石原純(東北帝国大学理科大学理論物理学助教授)宛てに手紙を出し、年俸1万5,000マルク(約7,500円)、3年の任期で、アインシュタインを1911年(明治44年)に新設された東北帝国大学理科大学の教授として招聘できないか打診したが、断られ実現しなかった[29]。, 1921年(大正10年)、アインシュタインは日本からドイツに留学していた鈴木鎮一(音楽教育家、1898-1998)の面倒をみることになった[30]。鈴木は徳川義親の渡欧に同行した人物で、ドイツでベルリン高等音楽学校教授カール・クリングラーに師事していた[30]。当初、鈴木は医学部教授のミヒャエルス教授のもとで生活していたが、アメリカの大学に招聘されたためミヒャエルス教授はアインシュタインに鈴木のことを託した[30]。鈴木はアインシュタインがバッハのシャコンヌ(無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータBWV1004-5)を好んでおりヴァイオリンの演奏は自分よりも上手いと思ったという[31]。アインシュタインは鈴木を通じて日本人の人となりを知るきっかけになったといわれている[31]。, 1922年(大正11年)、「出版業界きっての立役者」と名を馳せた改造社創業者・山本実彦は、同出版社および雑誌「改造」が日本に招致したバートランド・ラッセル、マーガレット・サンガーに次ぐ「世界的名声人士」として、懇意になっていたアインシュタイン博士を妻エルザとともに日本に招待することにした。招待する側には、講演収入と同出版社の招待者特集本の売上増の見込みもあったが、日本は当時大正デモクラシーの時期であり、アインシュタイン来日は社会的にも大きな意味を持っていた。招かれたアインシュタインの側は、ラフカディオ・ハーンが記した美しい日本を実際に自分の眼で確かめることと、科学の世界的連携によって国際関係を一層親善に導くことが訪日の目的である、と語っている。, 10月8日、フランス南部・地中海に面したマルセイユから日本郵船「北野丸」で出港。香港から上海へと航海中の11月10日、スウェーデン科学アカデミーが、アインシュタインに1921年度ノーベル物理学賞[† 12]を授与することを発表し、船上でこの電報を受けた[31][† 13]。このニュースは日本国内にも伝えられ、結果、日本各地で更なる歓待を受けることとなった。11月13日午前11時、上海入港。14日朝、神戸に向かって上海を出港した。, 11月17日16:00すぎに神戸港に到着。出迎えたのは、改造社の山本実彦夫妻、そして、東京帝国大学教授の長岡半太郎、女性問題ですでに大学を辞職していた東北帝国大学元教授だった石原純と教授の愛知敬一、九州帝国大学教授の桑木彧雄(石原と愛知は長岡の弟子。石原と桑木はアインシュタインとスイスにて面識があった)。集まった歓迎の群集や新聞記者の様子を見て、当時のドイツ大使館は「凱旋行進のようだ」と本国に報告している。17:00三宮駅発の汽車で京都に向かい、その夜は京都の都ホテルに宿泊した。翌18日、9:15発の特急で東京に向かい、19:20東京駅着。駅には歓迎の群集が押し寄せ、投宿する帝国ホテルに到着するのに通常は車で5、6分程度のものの、相当の時間が必要だったと記録されている。, 一般講演は入場料3円(オペラの上等席に匹敵)で、休憩を挟んで4-5時間程度。講演回数は6回の予定だったが、結局、東京市2回と仙台市・名古屋市・京都市・大阪市・神戸市・福岡市で各1回の計8回行われ、14,000名ほどの聴衆を集めた。講演の通訳は、東北帝大元教授で、助教授時代にアインシュタインのもとに留学した石原純。東京帝大での学術講義では、全国から集まった学者・学生120名が聴き入った。 [† 14], なお、1922年の訪日の際に人力車に乗ることを薦められたが、非人道的な奴隷労働と解釈し、乗車を拒否したことがある[32]。, 講演の合間を縫って、浅草、松島、日光、熱田、京都、奈良、宮島などを観光し、能と歌舞伎も堪能した。26日に離日の予定だったが、船舶の都合で滞在が3日延びたため、門司三井倶楽部に滞在した。12月29日午後3時、日本郵船「榛名丸」で門司港よりパレスチナに向けて出航・離日。, 2018年に公開されたアインシュタインのアジア旅行時の日記には現地での中国人やスリランカ人への記載が人種差別だとして批判されている。対照的に1922-23年の訪日時の日記にて「日本人は謙虚で質素、礼儀正しい、まったく魅力的です」「他のどこにも存在しないくらい純真な魂たち。誰でもこの国を愛し、敬うだろう」と評価した一方で「日本人の知識への欲求は芸術への欲求に比べると弱いようだ。生まれつきの気質か?」と残している[43]。, 音楽学者でモーツァルトの研究者のアルフレート・アインシュタインを従弟と見なす文献もあるが[46]、二人は無関係だ、とする説もある[47]。, 1999年、アメリカのニュース週刊誌『タイム』は、アルベルト・アインシュタインを「パーソン・オブ・ザ・センチュリー」(20世紀の人)に選出した[48]。, 2017年、アインシュタインが1922年に来日した際滞在した東京の帝国ホテルでベルボーイにチップ代わりに渡した2枚のドイツ語のメモが、それぞれ156万ドル、24万ドルで落札された[49]。, ヴィルヘルム・レントゲン (1901) - ヘンドリック・ローレンツ / ピーター・ゼーマン (1902) - アンリ・ベクレル / ピエール・キュリー / マリ・キュリー (1903) - ジョン・ウィリアム・ストラット (1904) - フィリップ・レーナルト (1905) - ジョゼフ・ジョン・トムソン (1906) - アルバート・マイケルソン (1907) - ガブリエル・リップマン (1908) - グリエルモ・マルコーニ / フェルディナント・ブラウン (1909) - ヨハネス・ファン・デル・ワールス (1910) - ヴィルヘルム・ヴィーン (1911) - ニルス・グスタフ・ダレーン (1912) - ヘイケ・カメルリング・オネス (1913) - マックス・フォン・ラウエ (1914) - ヘンリー・ブラッグ / ローレンス・ブラッグ (1915) - チャールズ・バークラ (1917) - マックス・プランク (1918) - ヨハネス・シュタルク (1919) - シャルル・エドゥアール・ギヨーム (1920) - アルベルト・アインシュタイン (1921) - ニールス・ボーア (1922) - ロバート・ミリカン (1923) - マンネ・シーグバーン (1924) - ジェイムス・フランク / グスタフ・ヘルツ (1925), Die Quantenmechanik ist sehr achtunggebietend. 【ビジネス】アインシュタインの英語の格言と日本語訳. - 浜島書店 Catch a Wave, 物理学者アルベルト・アインシュタインの相対性理論によれば、運動している物体の経過時間は、静止している物体の経過時間に比べて相対的に遅くなる。例文帳に追加, According to the theory of relativity advocated by the physicist Albert Einstein, the elapsed time of objects in motion is relatively slower than that of objects at rest.発音を聞く - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス, アルベルト・アインシュタインのページの著作権英和・和英辞典情報提供元は参加元一覧にて確認できます。, ピン留めアイコンをクリックすると単語とその意味を画面の右側に残しておくことができます。, Weblio英和対訳辞書はプログラムで機械的に意味や英語表現を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。. Knowledge is limited. アルベルト・アインシュタインの英語の格言、名言をご紹介。|英語の格言(496) vol.635. この記事は 約2分 で読めます。 スポンサーリンク. Wolff, Barbara (2005), “Einstein und die Musik”, in Renn, Jürgen, Albert Einstein - Ingenieur des Universums. アルベルト・アインシュタイン. 2020.06.23. スポンサーリンク. (physicist born in Germany who formulated the special theory of relativity and the general theory of relativity), 1922年12月18日、来日していたアルベルト・アインシュタインが来館している。例文帳に追加, On December 18, 1922, Albert EINSTEIN visited the museum.発音を聞く - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス, アルベルト・アインシュタイン 1922年(大正11年)12月17日、18日 物理学者例文帳に追加, Albert EINSTEIN: December 17 and 18, 1922, physical scientist発音を聞く - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス, 大正6年(1917年):ロシア革命勃発、アルベルト・アインシュタイン「相対論的宇宙論」発表例文帳に追加, 1917: Outbreak of the Russian Revolution and the publication of 'relativistic cosmology' by Albert EINSTEIN発音を聞く - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス, 大正11年(1922年):ソビエト連邦成立、日本共産党結成、アルベルト・アインシュタイン博士来日例文帳に追加, 1922: Foundation of the Soviet Union, formation of the Japanese Communist Party, Dr. Albert EINSTEIN's visit to Japan発音を聞く - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス, アルベルト・アインシュタイン氏は1916年に,自身の一般相対性理論の中で重力波の存在を予言していた。例文帳に追加, Albert Einstein predicted the existence of gravitational waves in 1916 in his general theory of relativity. Albert Einstein; Einstein, Alfred; ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説 [生]1879.3.14. 言霊の備忘録:アルベルト・アインシュタイン 名言・格言集プラスα【英語・英文】 アルベルト・アインシュタインってだれ? アルベルト・アインシュタイン氏のプロフィール . アルベルト・アインシュタイン氏は1916年に,自身の一般相対性理論の中で重力波の存在を予言していた。 例文帳に追加 Albert Einstein predicted the existence of gravitational waves in 1916 in his general theory of relativity. アルベルト・アインシュタイン (独: Albert Einstein 、1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ生まれの理論物理学者である。 ドイツ出身の理論物理学者。20世紀最大の物理学者、現代物理学の父とも称される。 国: ドイツ出身、国籍はスイス、アメリカなど 生: 1879年3月14日 没: 1955年4月18日(享年76) 【その生涯】 名言集へ行く エルザ・アインシュタイン(Elsa Einstein、1876年 1月18日 – 1936年 12月20日)は、アルベルト・アインシュタインの2番目の妻、従姉。 エルザとアルベルトは、母親同士が姉妹であったので従姉弟の関係であったが、さらに、父親同士は従兄弟であったためはとこ(再従姉弟)の関係でもあった。 現代物理学の父「相対性理論」で有名なアルベルト・アインシュタインさんの名言・格言を英語と日本語でまとめてみました。アインシュタインさんの名言・格言には「人生」「理解」「クリエイティブ」「シンプル」など沢山のきっかけがあるかと思います。 Aber eine innere Stimme sagt mir, daß das noch nicht der wahre Jakob ist. 100 Autoren für Einstein, pp. Calaprice, Alice, Daniel Kennefick, & Robert Schulmann. 2020.02.05. アインシュタインの英語 の ... 相対性理論などを提唱し、「現代物理学の父」と称されるアルベルト・アインシュタイン(1879~1955)の英語の名言をご紹介します。 「アインシュタインの日本語の名言」へ . アインシュタイン (英語表記)Einstein, Albert. アルベルト・アインシュタインを英語で訳すと 【名詞】albert einstein, einsteinドイツの生まれの物理学者で、特殊相対性理論と一般相対性理論を定式化した(physicist born in Germany who formu... - 約1172万語ある英和辞典・和英辞典。発音・イディオムも分かる英語辞書。 目次. 自分自身の目で見、自分自身の心で感じる人は、とても少ない。 Imagination is more important than knowledge. Jedenfalls bin ich überzeugt, daß, そのことで、単なる記号処理的な頭脳の働きでなく、全体を把握する能力を養ったという意見もある。, 言語に障害があったアインシュタインに、この視覚教育はよく合っていた。そして、昔培った視覚能力をそのアーラウでさらに高めた。それがのちの研究者としての人生に大きく関わることになる。, よって、おそらくアルベルトは誕生した自分の娘を一度も目にしなかっただろう、と推定される。なお、誕生した娘の名前も、その後どうなったかも、公式の記録が残っていない。娘に起きたことが明確に手紙に書かれているわけではないが、二人の手紙の微妙な文言から推察されるのは、子供が放棄されたかあるいは, 彼の有名な言葉の一つである「生きるには二つの方法しかない。何事も奇跡ではないかのように生きるか、あらゆることが奇跡であるかのように生きるかだ」が示すように、平和と戦争の両方に深く重く関わった彼だからこそ言える発言であるという声もある。, 同賞が授与されたのは公式的には、光電効果の法則等についての貢献に関して。相対性理論についてではない。, フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』IV 世界大戦ー現代 原書房 2005年 15ページ, フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』IV 世界大戦ー現代 原書房 2005年 18ページ, ビー・ウィルソン『キッチンの歴史:料理道具が変えた人類の食文化』真田真由子訳 河出書房新社 2014年, ナンシー・アンドリアセン『心を探る脳科学』《NHK未来への提言》日本放送出版協会 p.91, Foster, Brian (January 2005), “Einstein and his love of music”, PhysicsWorld 18 (1): 34, 西原稔・安生健『アインシュタインとヴァイオリン 音楽のなかの科学』ヤマハミュージックメディア、2014年、22ページ。. ドイツ出身の物理学者アルバート・アインシュタインは平和主義者として有名だったが、1939年にはアメリカ大統領フランクリン・d・ルーズベルトに宛てた、原子爆弾の開発を求める書簡に署名した。アインシュタインやその他の科学者たちは、ナチス・ドイ 254-255, http://english4success.ru/Upload/books/1640.pdf, http://www.scientificamerican.com/article.cfm?id=the-other-half-of-the-bra, http://www2.archives.tohoku.ac.jp/hensan/news/kiji2.htm#アインシュタイン博士と東北大学, Volume 13: The Berlin Years: Writings & Correspondence January 1922-March 1923, http://www.yomiuri.co.jp/tabi/news/20091230-OYT8T00271.htm, http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/einstein/20060407ei02.htm, Einstein's travel diaries reveal 'shocking' xenophobia, http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,991227,00.html, https://books.google.com/books?id=875TTxildJ0C&dq=idiots+guide+to+einstein&printsec=frontcover, https://books.google.com/books?id=B8K6n177ZwcC, “On Albert Einstein by Robert Oppenheimer”, http://www.nybooks.com/articles/archives/1966/mar/17/on-albert-einstein/?pagination=false, http://www.worldcat.org/title/einstein-from-b-to-z/oclc/237532460, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=アルベルト・アインシュタイン&oldid=80526345, その連鎖核反応においては、莫大なエネルギーとラジウムに似た新種の元素が大量に作り出されるであろうこと。, この研究が進めば爆弾の製造にも応用され、新しいタイプのきわめて強力な爆弾が作られるということにもなるかもしれないこと。, その爆弾は巨大なものになり、飛行機による爆撃は不可能と思われるものの、船によって輸送して爆発させた際には港湾施設等を広域にわたって破壊しうるということ。, 政府と物理学者たちとの間に恒常的な接触をもたせるべきである、ということ。具体的には、大統領への以下の提案を含む。, 政府の省庁を通じて、さらなる開発のための周知徹底を図り、またウランの供給の実現に注意を向けさせるための政府行動を起こすよう勧告を行うこと。, 寄付を惜しまない私人への接触を通じて基金を設立し、また必要な装置をもっている企業研究所の協力を取り付けることによって、開発を促進すること。, お茶目な性格でもあった。毎回同じ講演をしていてうんざりしたとき、ずっと付き添いをしていた運転手が「私は役者をやっていて、あなたの講演は一字一句覚えています。私と入れ替わりましょう」と提案し、面白がって、アインシュタインは一番後ろの席に座り、講演を聞いて役者の演技に舌を巻いた。しかし、本当に舌を巻いたと感じたのはこの後だった。なぜならこのいたずらはしばらく上手くいっていたようだが、あるとき高名な学者が極めて高度な質問をした。アインシュタインはばれたと思ったが、運転手は完全に落ち着き払って最後まで質問を聞いた。そして運転手は「あなたの質問は極めて簡単だ。私が答えるまでもないので後ろに座っている私の運転手に答えさせましょう」といってその場を乗り切ったからだ。, 特許庁の審査官を務めていたころ、「君ほどの人物が大学に残れないのは納得がいかない」と言われたことがあったが、「研究は大学でしかできないわけじゃないよ。だって、こうして君とお茶を飲みながらでも議論ができるじゃないか。ここは私にしてみれば、実に立派な研究室だよ」と言い返したことがある。, 服装に気をつかってはどうかと言われた際、「肉を買ったときに包み紙の方が立派だったら侘びしくはないか」とやりかえしたことがあるという。, 簡単な数字や記号を記憶することが苦手だったとされる。ある新聞社のインタビューの中で、光速度の数値を答えられず、記者から揶揄されると「本やノートに書いてあることをどうして憶えておかなければならないのかね?」とやりかえしたという。, 日本に原爆が落とされたとの一報を受けたとき、「O weh!(ああ、何て事だ!)」と漏らしたと伝えられている。, 死去する前年の1954年に、「もしヒロシマとナガサキのことを予見していたなら、1905年に発見した公式は破棄していただろう」と語った。, 「科学技術の進歩というのは、病的犯罪者の手の中にある斧のようなものだ」(Technological progress is like an axe in the hands of a pathological criminal.), 自身が構築した相対性理論(における時間の相対性)に関して物理学の門外漢から尋ねられたとき、「熱いストーブの上に1分間手を当ててみて下さい、まるで1時間くらいに感じられる。では可愛い女の子と一緒に1時間座っているとどうだろう、まるで1分間ぐらいにしか感じられない。それが相対性です」と、ユーモアで答えた。, 11月25日(土)〜12月1日(金)、東京帝国大学理学部物理学教室中央講堂で、専門家向け学術講演, 日本のネット上で、アインシュタインが述べたとされるいくつかの言葉が出回っているが、そのほとんどは確証が取れていない。例としては、「日本が世界の盟主になる」とした予言(, ブラウン運動への取り組み「熱の分子運動論から要請される,静止液体中に浮かぶ小さな粒子の運動について」, 量子仮説に関する初期の仕事「光の生成と変換に関する,ひとつの発見法的観点について」. Die Theorie liefert viel, aber dem Geheimnis des Alten bringt sie uns kaum näher. アルベルト・アインシュタインの名言まとめ【英語+日本語訳】 Few are those who see with their own eyes and feel with their own hearts. Imagination encircles the world. ユダヤ人物理学者アルベルト・アインシュタイン。文明をさらに飛躍させた多くの発見たちは、まさに天才的なものばかりでした。そんなアインシュタインの名言を紹介し、その言葉たちからの学びである「空想と想像が生きることを豊かにする」について考察します。 アルベルト・アインシュタインの名言を集めて心の常備薬として紹介します。(英語付) 「相対性理論」によって知られるドイツ出身の理論物理学者。イタリア、スイスに居住、「光電効果の発見」で1921年にノーベル物理学賞を受賞。ユダヤ系であり、シオ アルベルト・アインシュタイン氏のプロフィール . アルベルト・アインシュタインの名言を集めて心の常備薬として紹介します。(英語付) 「相対性理論」によって知られるドイツ出身の理論物理学者。イタリア、スイスに居住、「光電効果の発見」で1921年にノーベル物理学賞を受賞。ユダヤ系であり、シオ アルベルト・アインシュタインの名言集や格言はシンプルでも心に響くものが多いため、「アインシュタインの言葉」という本を購入し読んでいます。天才アインシュタインだからこそ感じれた戦争、恋愛、人生、教育、常識の意味について、名言を通して思想に触れていきましょう。 今回は、相対性理論でも有名なアインシュタインの言葉をご紹介! "The important thing is not to stop questioning." アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)は、ドイツ生まれのユダヤ人物理学者(theoretical physicist)です。現代物理学の父とも呼ばれ、1921年には、ノーベル物理学賞も受賞していま . Amazonでジェイク・ロナルドソン, 鹿野 晴夫のMP3 CD付 英語で読むアインシュタイン Albert Einstein【日英対訳】 (IBC対訳ライブラリー)。アマゾンならポイント還元本が多数。ジェイク・ロナルドソン, 鹿野 晴夫作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。
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