1940年代のアカデミー賞の受賞結果とノミネートのリスト。「風と共に去りぬ」「カサブランカ」が作品賞。名作「市民ケーン」「オズの魔法使」は作品賞逃がす。(アワード編集部) 風と共に去りぬとは『風と共に去りぬ』(かぜとともにさりぬ、英語: Gone With the Wind)は、マーガレット・ミッチェルの長編時代小説。題名は南北戦争という「風」と共に、当時絶頂にあったアメリカ南部白人たちの貴族文化社 『風と共に去りぬ』のマミーの圧倒的な存在感は、ハッティ・マクダニエルのそんな努力の集大成といった感じがします。 彼女のオスカー受賞は、もちろん政治的な意味合いも少しは入ってはいますが、 それ以上に彼女の演技が評価された結果だと思います。 レーザーディスク「『風と共に去りぬ』プレミアムBOX」の『幻のメイキング』解説「ドラマ以上にエキサイティングな史上最大のメイキング」日野康一, 『風と共に去りぬ 幻のメイキング』では11月中にイギリスを発ったことになっている。, 1969年の「スクリーン5月号臨時増刊『風と共に去りぬ』特集号」ではジョージ・キューカーがテストをしたフォンテインをメラニー役に横滑りさせようとした、と書かれている。, 新潮社の『風と共に去りぬ 写真集』ではニューカムの代わりに、セルズニックの秘書になっている。. There was a land of Cavaliers and Cotton Fields called the Old South. メラニー役でアカデミー賞の助演女優賞候補になった年には、同じ「風と共に去りぬ」の乳母マミー役で、アフリカ系俳優として初のオスカー受賞者になったハティー・マクダニエルに敗れた。 風と共に去りぬ Gone with the Wind: マミー(召使) アカデミー助演女優賞 受賞 1941: 偉大な … ★洋画パンフレット★風と共に去りぬ★監督:ビクター・フレミング★ビビアン・リー、クラーク・ゲーブル★アカデミー賞10部門受賞作品. ★洋画パンフレット★風と共に去りぬ★監督:ビクター・フレミング★ビビアン・リー、クラーク・ゲーブル★アカデミー賞10部門受賞作品. ワーナー・ホーム・ビデオ.1994年5月27日発売.『風と共に去りぬ 幻のメイキング』VHS.字幕+日本語ナレーション. 【風と共に去りぬ】 第ニ回目の投稿です! 今回観た映画はかなり昔の映画、「風と共に去りぬ」という映画です。カラー映画の第一号とも言われ、不朽の名作として有名です。 上映時間はなんと4時間!かなり長いような印象を受けますが意外とスラスラと観れてしまいました。 対象商品: アカデミー賞 ベスト100選 風と共に去りぬ dvd10枚組 acc-028 - ヴィヴィアン・リー dvd ¥1,501 一時的に在庫切れ; 入荷時期は未定です。 この商品は、Amazon.co.jpが販売および発送します。 1940年2月29日、当時46歳だった女優ハティ・マクダニエルは、『風と共に去りぬ』(1939年)のマミー役で、アカデミー賞の歴史に名を残した。 「Gone with the Wind(風と共に去りぬ)」マミー役で、1940年アカデミー賞授賞式の、 助演女優賞受賞。全部門中、黒人で受賞されたのは、ハティ様が初。 【風と共に去りぬ】 第ニ回目の投稿です! 今回観た映画はかなり昔の映画、「風と共に去りぬ」という映画です。カラー映画の第一号とも言われ、不朽の名作として有名です。 上映時間はなんと4時間!かなり長いような印象を受けますが意外とスラスラと観れてしまいました。 『風と共に去りぬ』メラニー役オリビア・デ・ハビランドさん死去 104歳 - 映画『風と共に去りぬ』のメラニー役で知られ、アカデミー賞を2度受賞した女優のオリビア・デ・ハビランドさんが26日、パリの自宅で亡くなった。104歳だった。広報担当者が公表したとVarietyが報じている。 『風と共に去りぬ』(かぜとともにさりぬ、原題: Gone with the Wind)は、1939年(英語版)に製作されたアメリカ映画。カラー製作、スタンダードサイズ。監督はヴィクター・フレミング。主演はヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル、レスリー・ハワード、オリヴィア・デ・ハヴィランド。日本での初公開は戦後の1952年。, 1936年6月に出版されたマーガレット・ミッチェル原作の『風と共に去りぬ』がベストセラーとなり、早くも出版の翌月に映画製作者のデヴィッド・O・セルズニックが映画化権を獲得した。その後3年の歳月と当時の金額でメトロ・ゴールドウィン・メイヤーとセルズニック・プロダクションが400万ドル前後の製作費をかけて全編で3時間42分という大長編映画を完成させた。, 1939年12月15日に舞台となったアトランタでワールドプレミアとして初公開[7][8]、当時としては画期的な長編テクニカラー映画であったことも手伝って、空前の世界的大ヒットとなった映画である。, 第12回アカデミー賞にて作品賞・監督賞・主演女優賞(ヴィヴィアン・リー)・助演女優賞(ハティ・マクダニエル・黒人俳優では初の受賞者)・脚色賞の8つのオスカーを始めとして、他に特別賞、技術成果賞を含む10部門を受賞した(他にセルズニックが個人で受けたアービング・G・タルバーグ賞も含めば11部門)。, セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズのニューヨークオフィスの代表でストーリー係のケイ・ブラウンは、1936年5月5日に『風と共に去りぬ』を出版したマクミラン社からマーガレット・ミッチェルの長編を受け取り一読[8]。『風と共に去りぬ』の映画としての可能性を見抜いて、デイヴィッド・O・セルズニックに『風と共に去りぬ』の映画化権を買わせるべく、梗概を作って5月20日にはセルズニックに送った[8]。その間にも本は旋風を巻き起こし、ぐんぐん売り上げを伸ばしていた[8]。セルズニックはその時『沙漠の花園』の撮影中で、ブラウンの興奮には同調しなかった[8]。, ケイ・ブラウンはそこでメモ・電報・伝言・電話で執拗な説得工作を開始[8]。セルズニックの秘書に「あの本には本気ですし、今や1分1秒を争うのです。既に一社から2万5000ドルの入札額が提示されました。」「文句なしの大作。主要人物は4人で、スカーレットはミリアム・ホプキンスかベティ・デイヴィスにぴったり。メラニーはジャネット・ゲイナー、レットはクラーク・ゲーブルが最適では。」と電報を打っている[8]。, ケイ・ブラウンはさらにセルズニックの友人で『風と共に去りぬ』を気に入っていたジョン・ヘイ・ホイットニーにも助けを求めた[8]。ホイットニーは、「もしそっちが買う気がないなら、自分が映画化権を買ってパイオニア・ピクチャーズで製作する。」とセルズニックに申し渡した[8]。, 出し抜かれるのが嫌いなセルズニックは秘書を通してケイ・ブラウンに5万ドルの入札額を出す権限を与え、契約が成立した[8]。, セルズニックが休暇から帰ってくると、14歳以上のほとんど全てのハリウッド女優が応募してきており、写真や電報、手紙や伝言でオフィスは埋め尽くされていた[8]。さらにミッチェルの原作に徹頭徹尾忠実で、何一つはしょったりしないように嘆願する手紙が山のように届いていた[8]。, セルズニックとホイットニーは『風と共に去りぬ』を叙事詩でテクニカラー向きの素材だと見ていた[8]。まず1037ページの原作から脚本を作り出すために、2万5000ドルでシドニー・ハワードを雇った[8]。また製作日程も決まっていなかったが、ジョージ・キューカーを説得して監督を引き受けさせた[8]。, またセルズニック・インターナショナルの広報部長は大々的な広告キャンペーンを開始した[8]。はじめのうちスカーレット役の本命と思われたのはベティ・デイヴィス[8][9][10]、キャサリン・ヘプバーン[8][9][10]、ミリアム・ホプキンス[8][9][10]、タルラー・バンクヘッド[8][9][10]、ノーマ・シアラー[8][9][10]、ジョーン・クロフォード[9][10]、バーバラ・スタンウィック[9][10]、マーガレット・サラヴァン[9][10]などであったが、セルズニックは映画を担う才能と経験があって比較的無名の女優を求めており、スターの映画にはしたくなかった[8]。そのため広報部長は怒涛の勢いでスカーレット探しを開始、全国でラジオや新聞で告知が始まった[8]。, この空前絶後のスカーレット探しは当時「スカーレット・フィーバー」と呼ばれた[11][12]。いくつもの新聞がスカーレットやレットの候補リストを作成し、レット・バトラー役にはロナルド・コールマン、ベイジル・ラスボーン、エロール・フリン、ゲイリー・クーパー、そしてクラーク・ゲーブルの名が挙がっていた[8]。エレノア・ルーズべルトは個人的に電話をかけてきて、マミー役に自分のメイドを推薦している[8]。, セルズニックはケイ・ブラウンに女優探しを指揮するように言いつけて高等学校の演劇部まで捜索させた[8]。1936年の12月には南部の各都市を回り、アトランタで「スカーレット役希望者は明朝9時にホテルのロビーに集合」と新聞広告を打つと、翌朝彼女はフロント係から500人以上もの人々が集まっていると連絡を受けた[8][9][10]。この際、マーガレット・ミッチェルが女子青年連盟のメンバー15人と助けにきている[8]。しかしオーディションをしてもいいと思われるのはわずか5、6人だけであった[8]。監督のジョージ・キューカーも1937年3月に俳優だけではなくロケ地の下見も兼ねて南部へ行っているが、結局南部で見つけられたのはアリシア・レットら端役の女優だけであった[8]。, ハリウッドでもセルズニックとホイットニーが無名の新人を発見する作業をしており、秘書たちが膨大な仕事に巻き込まれたが、結局徒労に終わった[8]。, 他にもスーザン・ヘイワード、ラナ・ターナー、アニタ・ルイーズらがスクリーンテストを受けている[9][10]。, 約2年間にわたるスカーレット探索は、応募者1400人、スクリーン・テストは90人、費用は9万2000ドルになった[8]。この段階で制作費は200万ドルを超えることが予想された[8]。, カメラテストではポーレット・ゴダードが最短距離にいて、セルズニック以下スタッフもほとんどゴダードでGOしそうになっていた[13]。, ヴィヴィアン・リーは英国で出版されたばかりの『風と共に去りぬ』を読んで心を奪われた[7]。リーが出演する37年初頭の舞台の初日に、リーは出演者の1人1人に『風と共に去りぬ』を配っており、自分のエージェントにはセルズニックの映画のスカーレットには自分が最も適任であると告げていた[7]。エージェントは映画化権を持っているのはセルズニックだし、ヴィヴィアン・リーはアレクサンダー・コルダと契約しているのだからどんなに関心を持っても無駄だと説得した[7]。しかしヴィヴィアン・リーはスカーレットに取り憑かれており、エージェントにも「スカーレットは私でなければならないのよ。セルズニックさんにそう言ってくださいな。」としつこく話をした[7]。リーが今までにない真剣な熱意に燃えていることを感じたエージェントはリーの写真と切り抜きをセルズニックの事務所に送り、『無敵艦隊』が完成したらフィルムを送ると約束した[7]。セルズニックの事務所のだれかがケイ・ブラウンに話し、ケイ・ブラウンはヴィヴィアン・リーのことでセルズニックに電報を打っている[7]。セルズニックは折り返し電報で「ヴィヴィアン・リーに興味なし。あるいは興味を持つかもしれないが、まだ写真を見ていない。まもなく『無敵艦隊』が公開されるので、その時にリーをみる。」と返答した[7]。, 1938年11月5日、当時恋人であったローレンス・オリヴィエが『嵐が丘』への出演のため船でアメリカへ向かった[7]。オリヴィエのアメリカ側のエージェントはセルズニックの兄のマイロン・セルズニックであった。リーとオリヴィエの間で手紙のやり取りが毎日なされていたが、12月にはリーはオリヴィエを追ってアメリカ行きの船に乗った[14][7][9][15]。, シドニー・ハワードは初稿で上映時間6時間の脚本を書いた[8]。1938年を費やしてシドニー・ハワードとセルズニックは妥当な長さの脚本にしようとしていたが、第5稿の段階でも5時間が必要であった[8]。また、脚本の第1稿はヘイズ・コードによって厳しく検閲を受けた[8]。「強姦を連想させるようなもの」「レットを不倫をするような男として描くこと」「ベルを売春婦と連想させること」「死者や負傷者が真に迫り恐ろしいこと」「レットがスカーレットを強姦するように思わせること」などが禁止され、脚本の修正欲求をされた[8]。その後もハワードは脚本の刈り込みを続けたが、1938年10月には気息奄々となって諦めている[8]。途中、改稿のためにスコット・フィッツジェラルドなどが雇われたが[9][10]、最終的にセルズニック自身が脚本を書くことになった[8]。, また、セルズニックは1938年6月には全国黒人地位向上協会と交渉し、「映画にはKKK団への言及も、黒人による暴力のシーンも含まれず、黒人の感情を刺激することを避けること。名誉毀損となる表現はいっさいしないこと、小説の中で黒人たちに明らかに不快感を催させるようなものは、物語の主要な要素からは削ること。」と合意した[8]。, ワーナーはセルズニックに、主演をベティ・デイヴィスとエロール・フリンで、そしてMGMよりも高額の出資を提案したが、1938年8月セルズニックは義理の父でもあるルイス・B・メイヤーのMGMと手を組み、レット役にクラーク・ゲーブル、さらに125万ドルの出資をしてもらい、代わりに世界配給権と7年間の利益の半分を渡すこととなった[9][10]。ゲーブルが決まったことで撮影は1939年1月から動かせなくなり、さらにセルズニック・インターナショナルのすべての映画の配給権をユナイテッド・アーティスツが持っているのは1939年の12月までだったので、そのあとに公開される準備が整った[8][9][10]。, スカーレット役はまだ決まっていなかったが、アトランタ操車場の弾薬庫の炎上シーンが撮影されることになった[8]。セルズニック・スタジオ(元のRKOスタジオ)にあった『キング・コング』などで使用された古いセットを燃やして、その後に『風と共に去りぬ』のセットを作ることになっていた[8][9][10]。使えるテクニカラーカメラは7台、火を自由に調節できる装置を考案し、レットとスカーレットのスタントを用意し、1938年12月10日の土曜の夜に開始された[8]。, その日の朝、セルズニックの兄マイロン・セルズニックはヴィヴィアン・リーに初めて会っており「これは驚いた!あなたはスカーレットだ!」と言った[8]。その夜マイロンはヴィヴィアン・リーとローレンス・オリヴィエを炎上シーンに連れて行き、撮影後にセルズニックにヴィヴィアン・リーを引き合わせた[8]。その時のことをセルズニックはこう語っている「ヴィヴィアン・リーを紹介された時、炎が彼女の顔を照らした。私は一目見て彼女がピッタリであることを知った。少なくとも彼女は私が考えていたスカーレット・オハラそのままであった。私はあの時の第一印象を永久に忘れることができないだろう。」[8]。, ヴィヴィアン・リーのスクリーンテストが翌週から直ちにジョージ・キューカー監督によって行われることとなった[8]。最終審査はポーレット・ゴダード、ジーン・アーサー、ジョーン・ベネット、そしてヴィヴィアン・リーに絞られていた[8][9][10]。リーはオリヴィエを相手にリハーサルを重ね、テストは12月21日に決まった[8]。「ヴィヴィアン・リーを見た人はみんな彼女の内に燃える何かを感じました。あの溌剌とした感じは他の女優にはなかったものでした。」とセルズニックの秘書は語っている[9][10]。リーはクリスマスに採用を告げられた[9][10]。, アシュレー役にはジェフリー・リン、メルヴィン・ダグラスもスクリーン・テストを受けていたが、「ジェフリーは全然ダメ、ダグラスは流石に上手いのだがアシュレー役には身体がゴツすぎる。」とセルズニックは言っている[9][10]。レスリー・ハワードはアシュレーを演じるのを渋っていたが、ハワードとイングリッド・バーグマンが主演する『別離』で、ハワードがやりたがっていたプロデューサーをさせるということで釣ったという[9][10]。, メラニー役にもいろんな女優がスクリーン・テストを受けていたが、セルズニックはジョーン・フォンテインをメラニー役で起用して本格デビューさせようとした[13]。しかしフォンテインはスカーレット役を狙っていたので、姉のオリヴィア・デ・ハヴィランドを推薦したという[13][16]。オリヴィア・デ・ハヴィランドはワーナーと専属契約をしていたので総帥のジャック・ワーナーから許可がおりなかったが、どうしても演じたかったハヴィランドはジャック・ワーナー夫人に頼み込んで許可を取った[9][10]。, 撮影は1939年1月26日にオープニングのシーンから開始された[8]。しかしセルズニックは次の日に撮影する部分の脚本を前日に書くという不安なシステムを作っており、監督のジョージ・キューカーはシドニー・ハワードの脚本へ立ち返るように求めていた[8]。また迅速なテンポで撮影しなければいけないのに、ジョージ・キューカーはそれぞれの心情と人物関係を浮かび上がらせていく演出法をとっていた[8]。クラーク・ゲーブルも、女優の演じる役を最大限に引き立てると定評のあるキューカーの演出法に落ち着かないものを感じていた[8]。キューカーがセルズニックの脚本に従うことも、もっとペースを上げてテーマに重きを置くようにという要請も蹴ったことで、セルズニックは2月13日にキューカーを監督から外した[8]。ヴィヴィアン・リーとオリヴィア・デ・ハヴィランドはキューカーを代えないでほしいと懇願したが無駄であった[8][7]。監督はゲーブルと大親友のヴィクター・フレミングに替わった[8]。ヴィヴィアン・リーはフレミング監督が好きではなく、こっそりキューカーの自宅を訪れて彼と二人でシーンを検討した[8][7]。リーはこれを撮影が終わるまで続けていたが、ハヴィランドもリーに知られないで同じことをしていた[8][7]。結局、完成された映画には大いにキューカーの影響があった[7]。, フレミング監督は2月18日からセルズニックと打ち合わせを始めたが、キューカーと同じようにこの脚本では撮影出来ないと言った[8]。そのためセルズニックはベン・ヘクトを招聘[8]。3人はシドニー・ハワードの脚本を掘り返し、ようやく使えるものを組み立てることができた[8]。しかし夜も昼も働いていたため、ベン・ヘクトは2週間で逃げ出してしまい、その後は電話をしても一切出なかったという[9][10]。, 3月2日、再びオープニング・シーンから撮影再開[8]。フレミングはテンポを速めることで役柄にエネルギーを吹き込み、明晰さと壮大さに力点を置いていた[8]。ただし、セルズニックは相変わらず脚本を毎日改稿していたため、フレミングがさらにテンポを上げようとしても、脚本が無いために足止めされていた[8]。, 撮影は1日12時間から18時間にまで延びており、クルーは24時間で待機していた[8]。さらに撮影は3班体制になっていた[8]。ヴィヴィアン・リーは撮影日数の95%に出演しており、仕事が全くない日はほとんどなかった[7][9]。タラでもう二度と飢えはしないと誓うシーンでは休憩なしで22時間ぶっ続けに働いた[7]。その後4時間眠り、翌日は戦争前のアトランタのシーンを撮っていた[7]。リーは毎日16時間も働いていたが[7]、皆が帰り支度を始めると「もう少しお願い」と言って、さらに撮影をしていた[9]。リーは1日でも早く撮影を終わらせて、ローレンス・オリヴィエのもとに行きたがっていたのだった[7][9]。セルズニックは脚本を書く合間にハル・カーンと共にその日撮影したフィルムを編集し、端役のキャスティングの決定をし、特殊効果をチェックしていた[8]。セルズニックの1日の勤務時間は18時間から20時間にまで達していた[8]。, フレミング監督とヴィヴィアン・リーは彼女の役柄で常に争っていた[7][8]。リーが涙を流し、フレミングが怒りに燃えて1日が終わることがしばしばあった[7]。フレミングはスカーレットをキツイ性格で、意地の悪い女に描き出そうとしており、リーはもっと心根の優しい女として描き出そうとしていた[8]。リーは原作をいつもセットに持って来ており、スカーレットの性格が変えられていると言って抗議した[7]。フレミングは人物の性格よりもスペクタクルに重点をおいていた[7]。スカーレットが階段から落ちた後レットが泣くシーンでゲーブルが泣くことを拒み、リーが演出に文句をつけたことでさらにこじらせ、何週間も肉体と精神両面の疲れと戦ってきたフレミングはとうとう耐えられなくなり、セットから出て行ってしまった[8]。, かねてからフレミングが休みを必要とするだろうと考えていたセルズニックはMGMのサム・ウッドを待機させていた[8]。ウッドは4月29日から仕事にかかり、第1班を監督した[8]。ウッドにとって初めてのテクニカラー作品であったにもかかわらず、彼は撮影ペースを維持した[8]。フレミングが戻ってきたのは5月17日[8]。サム・ウッドはそのまま残り、第2班を監督することになった[8]。撮影現場は今や6班体制になっていた[9][10]。そしてついに主要部分の撮影は6月27日に125日間で終了した[8]。今なら200日かかっても撮れないだろうと言われている[9][10]。ただし、打ち上げパーティーの後すぐに撮り直しが開始されている[9][10]。, セルズニックとハル・カーンは1日23時間も編集を行い、時にはぶっ続けで50時間も働いていた[9][10]。9月9日にはようやく試写に出せる程度のものが完成した[8]。上映時間はまだ4時間半、タイトルは絵であったし、音楽はまだ出来上がっておらず1937年の『ゼンダ城の虜』の音楽が使われていた[8]。デイヴィッドとアイリーンのセルズニック夫妻、編集のハル・カーンとジェームズ・E・ニューカム、ジョン・ヘイ・ホイットニーの5名で、フィルムを納めた缶を持ってリバーサイド市のフォックス劇場へ行った[8][9][10][17]。そこで舞い上がっている劇場支配人に上映予定を切り替えさせ、観客にこれから覆面試写会が開かれることを知らせた[8]。出入り口は封鎖され、誰も途中で席を立てないし、途中から入ってくることも出来ない、と[8]。映画が始まり、マーガレット・ミッチェルの名前が出ると大拍手、タイトルが出ると割れんばかりの大歓声が起こった[8][9]。セルズニック夫妻もハル・カーンも感激で泣いたという[9][10]。上映後、回収したアンケートでは絶賛の嵐であった[9][10]。, その後も少しずつフィルムを削る作業や撮り直しや追加撮影が行われ、10月13日にはオープニングシーンの最後の撮り直しもあった[8]。, 音楽は南部音楽に精通したマックス・スタイナーに8月14日に依頼されたが、さらに補助としてフランツ・ワックスマンとハーバート・ストサートが雇われた[9][10]。, 1939年10月18日にはサンタバーバラのアーリントン劇場でもう一度覆面試写会[8]。再び嵐が巻き起こった[8]。このあとさらに10日間の追加撮影を行い、11月11日に最終の追加撮影が終了[8]。10月半ばにはセルズニックはアメリカ映画協会に「damn」というレットの最後の言葉を許可してもらえるように手紙を書いている[8]。業界の重鎮たちが味方についたおかげで、このセリフは5000ドルの罰金で許可されている[8][9][10]。, 1939年12月11日の完成まで[9]、撮影したフィルムは50万フィート、そのうち上映時間にして29時間になる16万フィートがプリントされた[8]。最終2万フィート、222分の長さまで切り詰められた[8]。, 1939年12月15日、南部のアトランタでワールド・プレミアが開かれた[8]。ロウズ・グランド劇場の正面にトウェルヴ・オークス屋敷を模したファサードを建てたり、全ての商店のウィンドウにポスターを貼らせたりした[8]。知事はプレミアの日は州の休日、[8]アトランタ市では13日〜15日の3日間を休日にした[7][9][10]。グランド劇場の座席数は2051、入場料が50セントの時代に通常の20倍の10ドルという高額料金であったが、6万人から応募があり、抽選になった[18]。, 前日の14日にクラーク・ゲーブル、キャロル・ロンバード、ヴィヴィアン・リー、ローレンス・オリヴィエ、オリヴィア・デ・ハヴィランド、イヴリン・キース、アン・ラザフォード、アリシア・レット、ローラ・ホープ・クルーズ、オナ・マンスン、デヴィッド・O・セルズニック夫妻、ケイ・ブラウンらキャストやスタッフが到着[8]。スターや名士を乗せた30台の車からなるパレードが、空港からアトランタ市街まで行進した[8]。どの道路にも人が鈴なりであった[8]。また、市営の大講堂では当時の衣装を纏った人々によって、モンスター・バザーが再現された[8]。当日、スターと共に劇場に入った観客たちは涙ながらに拍手喝采をおくった[8]。映画から衝撃を受けるがままに「反乱軍の雄叫び」をあげ、ヤジを飛ばし、悲鳴を上げ、歓声を送り、足を踏み鳴らした[8]。, 上映後、マーガレット・ミッチェルがゲーブルにエスコートされて舞台に立ち[18]、「この映画は私に素晴らしい感動を与えてくれました」「色々言われながら理想の配役が得られるまで、黙り通したセルズニック氏の決意は賞賛に値します。そして配役は完璧だったと思います。」と述べている[9][10]。グランド劇場では改装まで3年間続映した[18]。, セルズニックが作ったその後の作品は、全て『風と共に去りぬ』と比較され、それより劣ると評された[9][10]。そしてわずか5年後の1944年に、セルズニックは本作の一切の権利をMGMに売却した[9][10]。現在は他のMGM作品(1986年以前)と同様タイム・ワーナーに版権がある。, インフレを調整した歴代の興行収入では、2020年現在でも『風と共に去りぬ』が1位である[19]。, 『風と共に去りぬ』は本来35mmスタンダードサイズであるが、アメリカでは1954年から、日本では1955年の最初のリバイバルからワイドスクリーン版での上映が行われてきた[20]。, 中でも1967年に日比谷スカラ座で世界初公開された70mmプリント版は、「2倍の大きさ、2倍のスペクタクル、2倍の興奮」と銘打たれて世界を回ったが[11]、これは単純に上下を切ったものではなく、当時の最先端の技術が使われている。, オリジナル・ネガを単純に70ミリの横幅に合わせて拡大したら天地が1/3以上切れてしまうため、MGM技術研究所はシネマスコープの映画を当時の1.33 : 1のテレビ用比率のプリントに変えた技術を応用している[11]。, ワイドスクリーンの映画をテレビ用に直すには両端を切れば良いわけで、そのためにワイドのフレームの端から端へレンズが動き、画面の重要な動きを捉える視査装置や走査焼付機が開発されていた[11]。このレンズの動きが電子的に記録され、インター・ポジをセットすると焼付機のレンズもその記録に従って正確に同じ動作をする[11]。, このレンズの動きを水平から垂直に変えることで2.2 : 1の70mmの画面を作ることに成功している[11]。これは1コマ1コマフィルムの画像を追求する大変な仕事で、重要なあらゆる部分や動きを、レンズがインターポジを上下に走査し、128万回もシャッターを切ってオリジナル・プリントと正確に同じ3時間42分の70mmプリントを生み出している[11]。, 音響の面でも、オリジナルの1本のトラックの音を、6本トラックの立体音響に移すため、声、音楽、エフェクトの別々のテープに分解し、これに修正や補強を加えて6本トラックにすることに成功している[11]。, これらは1965年の後半から始められ、テスト・リールが作られてからさらに1年の歳月をかけて70mmのマスター・プリントとステレオサウンドが完成されている[11]。, 映画の冒頭のメインタイトルでスタッフ・キャスト等のテロップの後に、ディキシーの調べと共にアーネスト・ダウスンの恋愛詩「シナラ」の詩の一句が出てくる。これは原作の題名の由来にもなっている[13]。, この文章は、一つの文化が戦争という烈風と共に消え去ったことを意味している[11]。, 本作は米国に於いては著作権が切れる前に95年に延長されており、1939年制作なので保護期間は2034年まで有効である。, ワーナー・ホーム・ビデオから発売されたVHS版は日本でのリリースが米国に先行する形となり日本語字幕版を逆輸入するケースが相次いだため、本国でのリリースが前倒しになった[要出典]。またこの件の影響もあり、DVDは北米と日本でリージョンをわけられることになった[要出典]。, 日本においては著作権の保護期間が完全に終了したことから(公開後50年と戦時加算を2004年の著作権法改正以前に満たす)、複数の会社から激安DVDが発売されている。. アカデミー賞受賞によって、その後のキャリアは約束されたも同然……というのは、少なくとも女優に限っては妄想だったようだ。だとすれば、彼らの躍進を阻むものとは何か。長年続くこの「呪い」から女優たちが解放されることを願いながら、その背景を探った。, 『風と共に去りぬ』(1939年)でのハティ・マクダニエル(右)。Photo: Silver Screen Collection/Getty Images, 1940年2月29日、当時46歳だった女優ハティ・マクダニエルは、『風と共に去りぬ』(1939年)のマミー役で、アカデミー賞の歴史に名を残した。彼女は、黒人俳優として初のオスカー像を獲得したのだ。助演女優賞受賞のスピーチで、マクダニエルは「今後、どんなことでも成し遂げられるという道しるべとして、いつもこの賞をよりどころにします」と感極まった。しかし、彼女のキャリアを次なる次元に導くはずだったこの受賞が、結果的には、むしろ逆の効果を生むことになったのだ。, 受賞から数か月経ったある日、彼女は劇場めぐりのライブツアーに送り出され、映画で演じた役を、半分空っぽの客席に向かって演じ続けることとなった。さらにこの受賞が脇役女優を強く印象付けたため、マクダニエルはその後メイド役を74回も演じ、最終的に所属スタジオから解雇されるまで大きな賞を受賞することはなかった。オスカー獲得から4年後、彼女はこう振り返った。, 黒人女優初のオスカー獲得という快挙を成し遂げたマクダニエルだが、それがその後のキャリアにポジティブな影響を及ぼすことはなかった。Photo: Bettmann/ Getty Images, マクダニエルのように、受賞を境に、公私にわたって運気が下がるという「オスカーの呪縛」にかけられた者は、ほかにもいる。しかし、非白人の40代の女性であった彼女にかけられた呪いは、誰よりも強かった。『巨星ジーグフェルド』(1936年)と『大地』(1937年)で相次いて主演女優賞を受賞したルイーゼ・ライナーは、この呪いの最初の犠牲者として知られるドイツ系アメリカ人女優だが、同時代を生きたほかの女優たちも似たような体験を経て、事実上の「戦力外通告」を受けている。, それから80年ほどの歳月が流れても、状況はほとんど変わらなかった。マーロン・ブランド、ジャック・ニコルソン、ロバート・デ・ニーロをはじめ、オスカーを手にした男性たちの多くが、以後、順風満帆な俳優人生を歩んだのに対し、アイリーン・ヘッカート、ルイーズ・フレッチャー、リー・グラントなど、同時期に活躍したオスカー女優たちの現在を知る者は決して多くない。, 2010年、第82回アカデミー賞で助演女優賞を受賞したモニーク。Photo: Michael Caulfield/WireImage, もちろん、そこにはさまざまな要因がある。受賞による過度な注目や期待によって役のイメージが固定化し、ひいてはピークが過ぎた俳優と思われてしまう危険……。けれど、それ以上に憂慮すべきは、女性や少数派に属する人々に対して、受賞という評価に大人しく甘んじ、より重要な役やギャラの値上げを要求しないよう求める空気があったことだ。, 「ハティ(・マクダニエル)の受賞後、『ほかの俳優と同等のギャラを受け取れるとは思わないように』という無言の圧力が、確かにあったと思う」, 受賞作となった『プレシャス』では、娘を虐待する、ふてぶてしく利己的な母親を演じた。Photo: Lee Daniels/Kobal/Shutterstock, 2010年に『プレシャス』(2009年)で助演女優賞を獲得したモニークはこう語る。, 「私の場合、受賞後にギャラが減額したわ。オスカーを獲るまでも、周囲から『受賞するほどの努力をしていないのだから、君が受賞することはない』と言われた。つまり、会食やパーティに積極的に顔を出し、笑顔を振りまいて顔を売る努力もしていない私が受賞するなどあり得ない、と言いたかったのね」, しかしモニークは、周囲の予想に反して賞を勝ち取った。その「代償」は、決して小さくなかったが。, 「女性であるだけでなく、黒人で、しかも太っている私に対して、『どうしてこんな女優にスピーチの機会が与えられるんだ? パーティに招かれただけで感謝すべきだ』というような空気があった。私は、業界に迎え入れてもらったわけじゃないんだと悟ったの」, モニーク以後、受賞スピーチを行った非白人女性は少ない。90年の歴史を振り返っても、助演女優賞、または主演女優賞でオスカー像を手にした黒人女性は、わずか9人。中でも主演女優賞は、『チョコレート』(2001年)での演技が評価されたハル・ベリーただ一人だ。しかしそのベリーとて、受賞後、『007 ダイ・アナザー・デイ』(2002年)に出演したものの、2004年の『キャットウーマン』で、その年の最低の映画や俳優に与えられるゴールデンラズベリー賞の不名誉を被ってからのキャリアは、ぱっとしない。, 2010年に、アカデミー賞の主演女優賞とゴールデンラズベリー賞の最低主演女優賞のW受賞を果たしたサンドラ・ブロック。Photo: Jason Merritt/Getty Images, キム・ベイシンガーもまた、『LA コンフィデンシャル』(1997年)でオスカー受賞後、『フィフティ・シェイズ・ダーカー』(2017年)でゴールデンラズベリー賞の苦杯を喫し、サンドラ・ブロックも、『しあわせの隠れ場所』(2009年)でオスカーに輝いたものの同年の『ウルトラ I LOVE YOU!』(2009年)で、ゴールデンラズベリー賞の辛酸を嘗めている。この2人がいずれも、40歳を過ぎてからのアカデミー賞受賞であったことは、単なる偶然だろうか。, 『愛は静けさの中に』(1986年)で、映画初出演ながら主演女優賞を史上最年少受賞したマーリー・マトリン 。Photo: Snap/Shutterstock, しかし、1987年に『愛は静けさの中に』(1986年)で同賞を受賞したマーリー・マトリンは、「オスカーの呪縛」には懐疑的だ。彼女はその後30年にわたり、アカデミー賞を受賞した唯一の聴覚障害者であり続けているが、受賞作以外の大作への出演には結びついていない。, 「映画評論家のレックス・リードに、私がお情けでオスカーを受賞したと言われたり、『ニューヨークマガジン』に、話すことができない私にはもう仕事は来ないだろうと書かれたりした。それでも私は、諦めずに女優としてのキャリアを築いてきたわ。確かに、注目を集めるような大作に出演する機会はなかったけれど、それはどちらかと言えば、聴覚障害者のステレオタイプやレッテルを乗り越えられないハリウッドの性質によるもの。受賞によって、自分が伝えたかったメッセージを発信できたのだから、私は満足している。聴覚障害者だからといって諦める必要はない。アカデミー賞を獲ることだってできるんだって」, Photo: Dreamworks Pictures/Kobal/Shutterstock, しかし近年、この呪いがついに解ける兆しが見えはじめた。『ヘルプ』(2011年)で助演女優賞に輝いたオクタヴィア・スペンサーは、その後、『フルートベール駅で』(2013年)の演技でも絶賛を浴び、『ドリーム』(2016年)と『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017年)では再びアカデミー賞にノミネートされた(黒人女優が受賞後に再びノミネートされた初の事例となった)。さらに、作品賞を受賞した『グリーンブック』(2018年)で、彼女はエグゼクティブプロデューサーを務めている。, スペンサーに続き助演女優賞を受賞したアン・ハサウェイやルピタ・ニョンゴ、パトリシア・アークエット、アリシア・ヴィキャンデル、ヴィオラ・デイヴィス、アリソン・ジャネイらも、その後、出演作に恵まれ、女優として大きく花開いている。また、『ビール・ストリートの恋人たち』(2018年)でアカデミー賞を受賞したレジーナ・キングも、その後、HBOの『ウォッチメン』(2019年)に出演し、現在は初監督作となる長編映画『One Night in Miami』(日本未公開)の撮影に取り組んでいる。, 近年、主演女優賞を受賞した女優たちのその後はさらに明るい。メリル・ストリープ、ケイト・ブランシェット、ジェニファー・ローレンス、エマ・ストーンはいずれも、オスカー獲得後に再びノミネートされているし、ローレンスとストーンに至っては、その後、ハリウッドでもっとギャラの高い女優(2015年、2016年、2017年の各年)に選出されている。『スリー・ビルボード』(2017年)でのフランシス・マクドーマンドの受賞も、代表作の一つであり受賞も果たした『ファーゴ』(1996年)から21年を経た例として、大きな注目を集めた。, 2018年のアカデミー賞で2度目の主演女優賞を受賞したフランシス・マクドーマンド(壇上)の、「インクルージョン・ライダー」の呼びかけに応じて立ち上がるメリル・ストリープ。Photo: MARK RALSTON/AFP via Getty Images, 現在の有力候補、レネー・ゼルウィガーが『ジュディ 虹の彼方に』(2019年)で主演女優賞を受賞すれば、その可能性はかなり高いと期待できる。『コールド・マウンテン』(2003年)で助演女優賞を受賞してからキャリアが停滞気味だった彼女は、その後6年間、映画製作から離れている。ゼルウィガーの再受賞は、かつての人気俳優に対するハリウッドのアティテュードの変化を象徴することになるだろう。, 今年のアカデミー賞で主演女優賞の本命と目される、『ジュディ 虹の彼方に』(2019年)のレネー・ゼルウィガー。, 16年前に『モンスター』(2003年)で受賞し、『スタンドアップ』(2005年)でノミネートされてから14年が過ぎた今年、『スキャンダル』(2019年)で再び主演女優賞候補に名を連ねているシャーリーズ・セロンも同様だ。, 「どうかしら。そもそも、私たちはオスカーがこの上なく重要なものだと思い込まされているきらいがある。もちろん、評価されることは誇らしいし価値あるものだと思うけれど、オスカーは、言ってしまえば単なるトロフィーよ。それをどう受け止めるかは、自分次第。振り回されないことが大切だと思うわ」, ※2014年3月31日以前更新記事内の掲載商品価格は、消費税5%時の税込価格、2014年4月1日更新記事内の掲載商品価格は、消費税抜きの本体価格となります. 風と共に去り ぬ (1939) gone with ... ・オハラ) バーバラ・オニール(エレン・オハラ) ハティ・マクダニエル(マミー) ジェーン・ダーウェル(ドーリー )ワード・ボンド ... アカデミー賞独占! アカデミー賞 ( アカデミーしょう 、 ( 英: Academy Awards )は、アメリカ 映画の健全な発展を目的に、キャスト、スタッフを表彰し、その労と成果を讃えるための映画賞。 授与されるオスカー像から、単にオスカー(Oscars)とも呼ばれる。. 第12回アカデミー賞で、作品賞など9部門でオスカーを総なめにした大作『風と共に去りぬ』(39)で、主人公スカーレット・オハラの義妹メラニー・ハミルトン役を演じ、アカデミー賞助演女優賞にノミネートされた女優オリヴィア・デ・ハヴィランドが26日、亡くなった。 タイトル風と共に去りぬ 中古 dvd アカデミー賞jancode4582154103012品番maxtr0012出演ヴィヴィアン・リー(スカーレット・オハラ)/クラーク・ゲイブル(レット・バトラー)/レスリー・ハワード(アシュレイ・ウィルクス)/オリヴィア・デ・ハヴィランド(メラニー・ハミルトン) 1940年代のアカデミー賞の受賞結果とノミネートのリスト。「風と共に去りぬ」「カサブランカ」が作品賞。名作「市民ケーン」「オズの魔法使」は作品賞逃がす。(アワード編集部) ハッマクダニエル 女優 映画 風と共に去りぬ マミー アカデミー賞 最初のアフリカ系アメリカ人 Public Domain skeeze / 11316枚の画像 「Gone with the Wind(風と共に去りぬ)」マミー役で、1940年アカデミー賞授賞式の、 助演女優賞受賞。全部門中、黒人で受賞されたのは、ハティ様が初。